サブカルかぶれの備忘録

忘れないためのメモ、気まぐれな日記

愛猫(トト)とお別れした日

愛猫が亡くなった。
わたしが小学6年生の頃から約15年間共に過ごした猫だった。名前はトト。一人っ子のわたし、或いは母親にとってはわたしの弟のような位置付けであった。

トトはとても良い子でとても可愛い子だった。
小顔の割りに、かなり図体が大きかったけれど。最高体重は8㎏くらいだったと思う。晩年はその半分くらいになっていたが。

出会いは小学6年生の秋、10月。
その日はマラソン大会の日だった。わたしは運動がてんでダメで、その日も当然ながらビリっけつでゴール。呼吸を整えながら列に並んで座っていると、隣の列(つまり他の学年の遅れてゴールした子たち)からこんな会話が聞こえた。

"ねえ、学校の裏門の辺りに猫が捨てられてたよね"

それを聞いてなんとなくわたしは帰りに見に行ってみようと思った。友だちを誘って見に行ってみると、そこにはダンボールに捨てられた子猫が3匹いたのだった。恐らくまだ生後1月に満たないであろう子猫たちはダンボールの中でみーみーと泣いていた。
わたしたちの他にも既に児童が何人か野次馬に来ており、そこでこの猫をどうするか、誰か連れて帰ることのできる人はいるか、という話になった。

わたしの住まいはアパートで、本来ならばあまり動物を飼ってはいけない環境(しかし、アパートが古いのと大家さんが寛大?なためか、特に注意されることもなく犬を飼っているご家庭もあったが)だったため、とても迷ったが1匹連れて帰ることにしたのである。それがトトだ。
なぜそう判断したかというと、連れて帰っても両親に怒られない、返してきなさいと言われない、そういった自信があったからだ。母が猫(に限らずだが)が好きだというのも勿論あったが、もっと確信的だったのはこの出来事の1週間くらい前のこんな会話だ。

どうやら父親が職場の近くで捨て猫を見かけたらしいのだという。それを聞いた母親は、連れて帰ってくればよかったのに〜、と言った。恐らく半分冗談だったのだと思うが、わたしは馬鹿正直にそれを素直に受け取った。つまりはそういうことだ。捨て猫を拾ってきてもきっとなんとかしてくれるだろうと、当時のわたしは考えた。

そうしてひとり一匹、ちょうど3人の引き取り手が決まった。ところでこの3匹を、誰がどの子を連れて帰るかをどうやって決めたかだけれど、簡単に言えば"早い者勝ち"のような感じだった。
のろまなわたしは最後に余った子になったわけだが、今になって思うとほんとうにこの子で、トトでよかったなーと思う。先に記した通り、トトはとても可愛いし頭が良いし、なりよりとても良い子だった。当の本人(本猫?)はどう思っているか知る由もないが、わたしは家に来てくれてほんとうにありがとうと思っている。

閑話休題、トトという名前は母親が名付けた。オズの魔法使いの主人公ドロシーが飼っている犬の名前からとったそうだ。なんで犬の名前なの?って今でも疑問です。

ちょっと肥満気味なところもあったが、ほぼ箱入りだったこともあり、特に怪我や病気等することもなく元気に過ごしていた、
ように思われていたが、15年目のある日、定期的な予防注射のため病院に行ったことをきっかけにある病気が発見された。
白血病だ。体重が昨年に比べ減っているとのことで、糖尿病の疑いで血液検査をしようということになり、そこで見つかった。
猫の白血病は猫同士のケンカ等でうつるそうだが、家の猫は誰かが見ている間にしか外に出すということはなく、ほぼ箱入り状態で、なのにどうして、と思った。病院の先生曰く、母親が白血病を持っており、生まれてきた段階で既にキャリアとして持っていたのだろう、老化に伴い今になって発症したのだろう、とのことだった。病院に連れていった父から間接的にそう聞いた。

確かに嘔吐の回数は増えていたし、食も細くなっていたが、まだまだ元気なように見えていたし、いなくなるなんていうのはまだまだだ先だろうと当然のように思っていた。

しかし、生き物というは当たり前にいつか終わりが来るものであり、それが今日だった。
亡くなる4日くらい前から急にご飯やお水が摂れなくなり、トイレもしなくなった。
本来ならばここで病院につれて行くべきだったのだろう。しかしトトは非常に車での移動や病院が苦手で、車に乗っている最中はずっと鳴いているような子だったため、検診等元気なときに行くのならばともかく、このように衰弱した状態で連れていくのはどうなのだろう…、強いストレスを与えてしまうのではないか、と考え、もともと処方されていた薬を与える以外のことは極力せず(母親が、ご飯や水をスプーンやシリンジを使って与えるくらい)家でこのまま見守ることとなった。
この頃になり、ああ、この子の命はもうそう長くないのだろうなと感じるようになった。

亡くなった当日、トトはわたしの布団の中にいた。前日夜にわたしが布団の中に入れていたからである。もう自力で歩くことも出来なかったため、ヒーターが止まったあと寒くなるだろうな、と思い布団に連れて行き一緒に寝ることにしたのだった。
夜中に何度かえづくような仕草をしていたが、もう吐くこともできなくなっていた。
腎臓に障害が起き、排尿ができなくなると尿毒症という症状になり、毒素が全身にまわることで吐き気が生じるそうだ。これはインターネットで調べて得た知識だった。わたしにはもうただ調べることしかできなかったのである。もっとも今さら調べたところで、病院に連れていくという選択肢が消えた段階で、何もすることはできないと分かっていたのだが。
いまこの子は強い吐き気等様々な症状と戦っているのだと思うと、お別れするのは寂しいけれど一方でどうか早く苦しまず楽になってほしい、という気持ちにもなった。でももうほんとうにいなくなるんだと思うと涙が溢れてきた。起きたらもういなくなっているんじゃないか、そう思いながら眠った。

翌朝トトはまだ呼吸をしていた。しかしその呼吸は今までに見たことのないくらい浅いもので、撫でたりしても少しも動かないようすだったので、わたしが仕事から帰ってくるまできっともたないだろうとそう感じた。
その予感は当たり、恐らくお昼頃亡くなったのだろうということを母親からのメールで知った。
母親は偶然にもこの日お休みだったため家にいた。それは少し救いだったんじゃないかなぁと個人的には思う。母親は、家にいたのに死に目に合うことができなかったと悔やんでいたが、ただ家に誰かがいただけでも良かった、とわたしは思った。何かひとりで死ぬのは寂しいなと勝手に思っていた。

帰宅して、亡骸を見たとき一気に涙が溢れてきた。ほんとうにきれいで安らかで、ただ寝ているだけなんじゃないかと思わせるような顔だった。

猫は死ぬとき苦しいのだろうか、どうなのだろうと最近調べたことがあった。苦しいと嫌だな、というのも勿論そうだが、それ以上に、もし死に目に合ったとき、何も知らずに苦しそうな鳴き声や痙攣しているようすを見てしまったらきっと耐えられないだろうから、調べておくことで、知って心構えをしておこうと思ったのである。
やはり猫によっては死ぬ間際に苦しそうな鳴き声をしたという子もいるようであったが、トトのこの表情をみると、実際のところは全く分からないが、少なくとものたうちまわるような激しい苦しみはなかったのかな、とそう感じた。そうだったらいいなと切に思います。

今これを記しているのは、全く実感がわかず、しかしとても悲しいという気持ちがあるため、丁寧に心の整理をしようと思ったからだ。

色々あの時こうしておけば、もっとこうしておけば、というのはたくさんあるが後悔したところでどうにもならないので、いっぱい思い出をありがとうという感謝の気持ちのほうを大切にしたいと思う。たぶんまだその辺に概念が漂ってるんじゃないかと思って。でも、今日だけは無理なんで泣かせてください。だけどこれからは強く生きられそうです。頑張ります。




ほんとうに15年間ありがとう

お疲れさま

大好きだよ

またいつか会える日までばいばい。